無我表現としてのAKB前田敦子

高橋ヒロヤス  

※ 毎回AKBのことばかりで申し訳ありません。ほかに今のこの国で(海外でも構いませんが)無我表現を実践し、かつ大衆に支持されている人(グループ)がいたら教えて下さい。


ご存じのとおり、2012年3月25日に前田敦子はAKB48を卒業することを発表した。このことについては後ほど触れるとして、3月25日以前の段階で書いた文章をいったん公表させていただきたい。


(以下貼り付け 註:3月25日以前の段階で書いた文章)


いまや押しも押されもしないAKBの「顔」であるといってよい前田敦子だが、さて彼女が一体どういう人物なのか、については「よくわからない」という人が多いのではないか。


たとえば、とっても男前なリーダーである高橋みなみの魅力は分かりやすい。2トップのもう一人である大島優子は、元気で機転がきいて演技がうまくて万人受けする資質を持っている。他の主要メンバー、篠田麻里子、小嶋陽菜、秋元才加、柏木由紀、渡辺麻友、板野友美、峯岸みなみ、指原莉乃、横山由依といった人たちも、それぞれにアイドル的、モデル的、トークが面白い、ひたむきに真面目等の分かりやすい魅力を持っている。もちろんわかったような気にさせられているというだけかもしれないが。


ところが、前田敦子だけは、何が彼女の魅力なのか、はっきりと指摘するのは意外と難しい。「スター性がある」とか「オーラがある」とかいうだけでは何も言っていることにならない。「ミステリアスな部分が魅力」というのは、要するに良く分からないと言っているだけだ。


本人曰く、「『何を考えているのかよくわからない』と4年間一緒にいるメンバーからもよく言われる」というくらいだから、前田敦子は確かによく言えば「ミステリアス」、もっと率直に言えば「よくわからない」存在といえるだろう。


「そういう時(よくわからないと言われる時)って、何か考えているんですか?」との問いに対して前田は、「何も考えてないのかもしれないです、もしかしたら(笑)。私は何も考えないでいっちゃうタイプなんですよ」と答えている。


確かによくわからない。なんで彼女がセンターなのか。何を考えているのか。やる気があるのかないのか。かわいいのかそうでないのか(おいおい)。とはいえ、魅力があるのかないのか、と問われれば、魅力的だろう。彼女を見ていて僕がなぜか連想するのは、若い頃のブリジット・バルドーで、人工的でない一種野性的な魅力がある。14歳で公演デビューして間もないころの彼女にそういう素質を感じ取り、センターに起用したスタッフ(秋元康)にはやはり見る目があると言わざるを得ない。


それから個人的に、前田敦子が従来のアイドルとまったく違うな、と感じたのは、彼女の「目」だ。彼女は、これまでのアイドルにはありえないような、醒めた目をしているときがある。それは虚空を見つめているかのような、目を開けたまま瞑想しているかのような目であり、彼女がしばしば「何を考えているのかわからない」と言われる理由になるのがその虚ろなまなざしである。


AKBは舞台裏でもしばしばカメラが回っているので、メンバーのオフショットの素顔がよく撮られる。カメラ目線ではない素のアイドルの顔は、もちろん決していつもにっこりしているわけではないし、決して愛想がいいわけではない。しかし、そんな中でも、前田敦子のような表情をしているメンバーはほかにいない。単に無愛想というのではない、何か一人だけ別次元にいるような感じがする。


僕はAKB自体が広い意味での無我表現であり「空っぽの器からの表現」だと思っているが、その中心に位置する前田敦子はその「空」の体現者といえるかもしれない。

誰かが彼女を「空っぽの絶対的エース」と評したのを見たときは、なるほどと思った。


(以下新聞記事(スポニチ)の引用)


AKB48の原点である東京・秋葉原のAKB48劇場が8日(2011年12月8日)にオープン6周年を迎える。劇場支配人・戸賀崎智信氏(38)に、この6年の軌跡をセンター・前田敦子(20)に焦点を絞って尋ねた。


 「前田は凄く暗かった」。


戸賀崎氏は2005年10月のオーディションを思い返す。


 「歌い終わった前田は暗かったが、質問されて最後にニコッと笑った顔が凄く可愛かった。その笑顔はみんなをキュンとさせるものだった。審査員の間で“暗いけれど最後の笑顔が凄かったね”という話になった。前田が通過した理由はそれだけだった」


 06年4月の劇場公演で総合プロデューサーの秋元康氏(55)は前田のソロ歌唱がある曲「渚のCHERRY」を作った。劇場オープンから約4カ月たって客足も伸び始めていたが、メンバーが多いため「誰が誰だか分からない」との声が上がっており、観客の目を引く存在が必要だった。


 芸能界を志す人なら誰でもスターに憧れるはずだ。AKB48の中にも、できるだけ目立ちたいと思うメンバーは少なくない。だが、前田は当初、自らのスター化計画に拒絶反応を示した。


 「もともと前田はソロで歌いたいと思ってなかった。人と違うことをするのを怖がるタイプだった。“渚のCHERRY”は一人だけ黄色い衣装を着て歌うが“なぜ私が一人で歌わなくちゃいけないの!?”とレコーディングスタジオに閉じこもってしまうほどだった」


 「秋元さんは前田が最もセンターっぽくないからセンターにしたのだろう。大島優子の魅力は分かりやすいが、前田はみんなが謎だと思う。握手会でも“あっちゃんは省エネ”と言われるが、それでも人気がある。イヌとネコに例えるならばネコのような存在で、だから人の興味を引く」


(記事引用おわり)


今年公開された映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』の中で、この映画を見た誰もの印象に残る、西武ドーム公演の二日目のシーン。過呼吸で立っているのがやっとの状態から、「フライングゲット」での笑顔。あれは「倒れても倒れても立ち上がるホセ・メンドーサ戦での矢吹丈」を地で行く鳥肌もののシーンだった。


あそこで立ち上がる前田敦子の姿が「無我表現」だ。


ここで大島優子との対比について敢えて言ってしまえば、大島優子は「自我表現」という気がする。これは優劣の問題ではない。大島優子が、ある意味で前田敦子以上に才能豊かで魅力的な表現者であることは明らかだ。彼女にとって「自我表現」が悪いわけでもなんでもない。彼女は常にどんな場面でも自分がどう振る舞うべきか、自分なりに一所懸命考えて一所懸命意識的に演じている。それはそれで素晴らしい。


これに対し、前田敦子が意識して無我表現をやっているとは思わない。というか意識した時点で無我表現ではなくなってしまうだろう。結果的にそうなっているということ。それでいい。


さらに言えば、前田敦子の無我表現は「AKBイリュージョン」の一つかもしれない。つまり、AKBがあるからできているのかもしれないということだ。その意味で、前田敦子の存在はAKBに依存しているといえなくもない。そしてそれが「センター」の宿命なのだろう。ある意味で、AKB(アイドル)という仕事は、表現者に無我表現を強いる構造になっているのかもしれない。


(貼り付け終わり)


こう書いた直後に、前田敦子による「卒業発表」があった。今後の興味は、AKBという肩書きを失った前田敦子がどうなるのか、ということと、前田敦子という中心を失ったAKBがどうなるのか、ということだ。


後者について言えば、無責任な外野の目からは、ここで一気に世代交代するのがいいんじゃないだろうかと感じる。初期メンバーで、一人でやっていけるくらいの力量のある人は全員卒業させてもいいのではないか(上に名前を挙げたうち1期生、2期生にはみなそれくらいの力はある)。それくらいしないと下の世代が育っていかない。それで勢いを失わないならばAKBというグループはこれから日本の芸能界をほぼ席巻するくらいまで続いていくと思う。


前田敦子個人についていえば、卒業直後のブログがとてもふっきれたような爽やかな文章だったので、少なくとも芸能人である前に一人の人間としてはいい選択だったのかなという気がする。だがAKBを卒業しても「元AKB」の肩書きは避けられない。「元AKB」という肩書きなしに、たんに「前田敦子」として認知されるような存在になれるかどうかが彼女の女優としての成功のバロメーターになるだろう。これは前田に限らず卒業メンバーすべてに言えることだが。


前田敦子がこれからも「無我表現」を続けていけるのか、それとも「自我表現」になるのか、AKBを卒業した彼女の今後に注目していきたい。