ホドロフスキー新作映画『リアリティのダンス』

~リアリティとは、もしかしてだけど、無我?~

土橋数子  


アレハンドロ・ホドロフスキー監督、23年ぶりの新作ということである。確か、1987年くらいに『エル・トポ』(70年)、そして『ホーリー・マウンテン』(73年)が公開されてからは、27年が経っているということになる。

いやはや、前二作を観た頃は、私も若かったな~。たいした映画好きでもなかったが、80年代の映画は今振り返っても面白い作品が多かったと思うし、もちろん今に続く80年代サブカル女(当時は『宝島少女』という呼び名もあったな…)なので、ヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュなどを観つつ、それより昔のアメリカンニューシネマやヌーベルバーグ作品などもちょいちょい観ていた。

こうした「私の中を素通りしていった映画たち」と比較すると、ホドロフスキーの二作は、かなり引っ掛かりをもてた映画だったと思う。カルト映画という触れ込みだったので、「変わったものが大好きなバカ女」にはぴったりだと思って観に行ったら、思いのほか奥が深くて、呆然とした。ただし、奥が深いと感じたのは、私があまりにも無知だったということも大きい。禅だとか神秘主義だとか、まったく知らなかったからね……。

その後、30年弱の「あまロス」ならぬ「ホドロス」期間も、ときどき情報はチェックしていた。ホドロフスキーの活動は実に多彩で、セラピー、タロットリーディング、家系図セラピスト、詩人、アニメーター、コミックス脚本家、演劇脚本家、小説家、演劇俳優などなど、いろいろなことをしている。

中でも私が興味を持ったのが、「ファミリー・コンステレーション」というセラピーをしているという点だ。これは、その人の人生のつまずきの大半が、幼少期の家族との関係が影響しているという前提で、ロールプレイで演じることをなど通して、親を許したり、そのときの自分を許したりするセラピーだという。

また、ホドロフスキーのタロットリーディグは、通常の占いとは違い、「未来を読む」のではなく、「現在」にある隠されたものを読みつつ、解決の糸口を探るという手法らしい。さらに、リーディングのみならず、「カモワンタロットカード」の復元を手がけ、カードが表す「象徴」を余すことなく表現した新作カードを世に出したりもしている。

ちなみに、タロットリーディングにしろ、セラピーにしろ、悩みを抱える人に無料で行っているそうである。

エル・トポを観た頃は、ホドロフスキー自身の情報も少なく、外国語に疎い私にとっては神秘のヴェールに包まれた存在だったのだが、こうした活動の一端や人柄がわかるにつれて、作品以上に、人物の魅力に惹き込まれていった。

ホドロフスキーの資質とエネルギーと方向性なら、新興宗教のカリスマになっても納得(いやもう入神しそう 笑)だが、そんな人が懸命にお金を集めて映画を撮っている、というところがミソですね。

というわけで、あのカッコよくてパワフルなおじいちゃんが撮った映画なので、やはり観ておこうという気持ち。そして、なぜだかわからないが、サブカルの過去を総括するような気持ちで新作鑑賞へ。

以前、福岡の映画館でエル・トポを観終わったときには、知り合いの女の子(バンドのボーカルで、私からするとあこがれの存在)が私を見つけて「面白かったねー!」と駆け寄ってきたっけ。そんな博多ロックシーンの登場人物の取り巻きをやってた私。でも今は子育て中のふつうの働く主婦。ここは東京砂漠。仕事の合間にこっそりこんな映画を観に来ているなんて、誰も知らない。ふふふ。

と思いきや、なんと映画館で知り合いに会った……。(少し気まずい 笑)。意外に生息圏は変わっていなかったな。

『リアリティのダンス』は、ホドロフスキーの原点に立ち戻った映画ということである。彼の少年時代を描いている。制作のきっかけは一人の息子さんを亡くされたことだという。主役を含めた主要な登場人物のうち、3人は実の息子さんだ。つまり、この映画はホドロフスキー自身の「壮大なファミリー・コンステレーション」であるともいえる。

実際に、チラシやパンフレットでご本人が「これは魂を癒す映画であり、私の家族を映画の中で再生し、私の魂を癒す映画でもあった」と語っている。

映画は、もちろん面白かった。猥雑で崇高でバカバカしくも感動的。マニアックな映画だとは思うが、あらゆるものを吸い上げていて、実は偏りがなく、小難しくもない。それなりに知識がついてスレた私が見れば、いい意味で、奥も深くない(笑)。いや、浅いとケチをつける意味ではないのだが、全編が「象徴」によって作られているので、シーンもプロットもパキッとしていて、ひとつひとつに奥が深いとか言い出すまでもないという意味。


 

ホドロフスキー自身が、セラピーやリーディングなどの実践者でもあることから、コテコテのスピリチュアル映画とも観ることができる。中でも、お母さん(女優さんは本物のオペラ歌手で、劇中でもセリフはぜんぶ節のついたオペラ調)は、物語の後半から最終的にものすごいスピリチュアル・ヒーラーとなり、過酷な魂の旅を終えてきた夫・ハイメを癒す。「この世は幻想」「ありのままの自分」という、スピ用語も普通に出てくる。とはいえ、そこは巷のスピ業界とは天と地ほどの違いがある。

ホドロフスキーは、自我がもたらすこの世の醜悪を直視して、自分に憑依しているもの(ここでは主に横暴な両親)の正体を見極め、肉体的な痛みに極限まで耐えるというような比喩を通して、「自分が“これが自分だ”と思って抱え込んでいるもの」を破壊する。ハイメの魂にまとわりついている「自我」。そこに色濃く残る暴君の影を、「写真をピストルで打って、焼き落とす」という妻の荒療治ヒーリング儀式によって、「ありのままの自分」として再生するハイメ。

この「ありのままの自分」という日本語は、同じく2014年公開作品の『アナと雪の女王』とは真逆のところを指している。

本作のハイメも、アナ雪のエルサも、強いエネルギーを持った存在として描かれている。エルサは、「これが自分だ」と抱え込んでいる自我の方を「ありのまま」と翻訳されてしまったわけだが、実際は逆だ。ハイメもエルサも、周囲に与えた痛み、自分にもたらされる痛みを感じきることによって、真実的な意味の「ありのままの自分」となる。そこには、「真・善・美」が、一瞬かもしれないけど、在る。

これは無我体験と通ずるし、やはりホドロフスキーは無我表現者だと思う。となれば、ホドロフスキーのいう「リアリティ」という言葉には、無我的なものがあるのではないだろうか。

再確認はしていないが、ネットのインタビューか何かに、「没入してやりたいことをやるのがリアリティ」というようなホドロフスキーの言葉があった。

人生で起こる出来事、それがたとえこの映画のような痛みであっても、楽しみであっても、淡々とした営みであっても、その中に没入して、生きること。目前のことに、没入して生きること。それが、ホドロフスキー表すところのリアリティなのだ。

そしてそれは、繰り返し湧き出るリズムの中にあり、ダンスをしているのだろう。 じゃがたらの江戸アケミが「お前はお前のダンスを踊れ」と言ったダンスと、ホドロフスキーのダンスは、おそらく同じことを表していると思う。

あまりに多面的なホドロフスキーとその映画なので、まとまりなくなってしまったが……。(いつもです)

さて、映画館で偶然会った人は、実は長女の保育園時代の同じ保護者だ。(どんなマニアックな保育園やねん 笑)この偶然を、タロットのごとく象徴的に捉えるのなら、「親という存在がフーカスされ、家族の癒しをテーマにした映画を、同じ立場の保護者と(ボカシ無しで)観た」ことになる。

ホドロフスキーが「ほらね、あなたは世界の網の目の中で、つながっているんですよ」と、いたずらっぽく笑っているような、ありがたい気分にもなっている。